旧海軍兵学校が見渡せる山の中腹に観海山品覚寺があります。
太平洋戦争では、出征する兵士たちを見送りした話も聞いたことがあります。
品覚寺は、標高263メートルの津久茂山の中腹にあります。
幹部候補生学校卒業式で出発するコースを実際に船で走りました。
海から見る寺は、こんな感じです。
境内には、海軍兵学校第十九期専修学生も江田島湾を見つめていました。
明治37年、海軍艦艇「吉野」と「春日」の追突事故が起こり、品覚寺で追悼法要を営んだことをきっかけに、多くの海軍兵学校の生徒が訪れるようになりました。海軍兵学校から徒歩で行くこともでき、生徒達にとっては休日の憩いの場となっていました。
寺を訪れた生徒は、記名帳に名前と、そのときの心境などを書き添えるようになりました。その和綴じの帳面は「津久茂帳」と名付けられ、明治37(1904)年から昭和20(1945)年まで21冊、記録された名は3000人余りとなります。
太平洋戦争末期には、出撃を前にして決意の思いをしたためた一文もあります。戦後は旧海軍関係者や海上自衛隊の隊員が訪れるようになり、現在まで歴史を綴っています。
「津久茂帳」は希望すれば閲覧できます。
品覚寺は、津久茂バス停から徒歩10分です。
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品覚寺は、標高263メートルの津久茂山の中腹にあります。
幹部候補生学校卒業式で出発するコースを実際に船で走りました。
海から見る寺は、こんな感じです。
境内には、海軍兵学校第十九期専修学生も江田島湾を見つめていました。
明治37年、海軍艦艇「吉野」と「春日」の追突事故が起こり、品覚寺で追悼法要を営んだことをきっかけに、多くの海軍兵学校の生徒が訪れるようになりました。海軍兵学校から徒歩で行くこともでき、生徒達にとっては休日の憩いの場となっていました。
寺を訪れた生徒は、記名帳に名前と、そのときの心境などを書き添えるようになりました。その和綴じの帳面は「津久茂帳」と名付けられ、明治37(1904)年から昭和20(1945)年まで21冊、記録された名は3000人余りとなります。
太平洋戦争末期には、出撃を前にして決意の思いをしたためた一文もあります。戦後は旧海軍関係者や海上自衛隊の隊員が訪れるようになり、現在まで歴史を綴っています。
「津久茂帳」は希望すれば閲覧できます。
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